天皇の「おことば」の合憲性ーー天皇陛下の「お気持ち」を考える
2016/08/10
こんにちは。日本橋人形町の弁護士濵門俊也(はまかど・としや)です。
平成28年8月8日(月)午後3時,天皇陛下が生前退位の意向をにじませるお気持ちを表明されました。あのテレビ東京(皆さんご存知のとおり,この局は「右にならえ」ではなく独自の路線を貫く絶対ブレない放送局です。)を含めた在京のテレビ局全局が天皇陛下のおことばを放送し,まさに「平成の玉音放送」となりました。
戦後制定された日本国憲法は,天皇の立場を大日本帝国憲法下の「国家元首」「統治権の総攬(そうらん)者」から,「日本国…日本国民統合の象徴」へと大きく変えました。国政への権能はもたず,内閣の助言と承認のもとに国事行為を行う存在となりました。即位した時から象徴天皇であられた天皇陛下が,昨日のおことばにおいても,新しい象徴天皇としての望ましい在り方を模索し続けてこられたことが語られました。天皇陛下は,全身全霊をこめて務めに当たられ,天皇の務めとして何より大切なのは「国民の安寧と幸せを祈ること」と明かされました。皇后陛下と共になされた全国各地への旅も,国民との相互理解や国民と共にある自覚を育てる「天皇の象徴的行為」であったとも述べられています。
さて,天皇陛下のおことばですが,憲法学上は「天皇のおことばの合憲性」が争われています。そこで,今回はそのことについて説明をしてみます(なお,以下では憲法学の論点を説明しますので,敬称は略します。)。
●天皇の行為についての概説
天皇の行為には,国事行為と私的行為があることについて争いはありません。それ以外に公的行為という概念を認めるか否かについて,主に天皇の国会開会式での「おことば」の合憲性を巡って争われてきました。
1.国事行為
日本国憲法(以下省略します。)4条1項前段には,「天皇は,この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ(4条1項前段)」と規定され,6条,7条によってその具体的行為が限定列挙されています。これらを国事行為といいます。国事行為の中にはいかにも君主らしい統治権の行使と思われる事項も含まれており,上記の規定しかなければ「君主の権能」を限定して形式化する通常の立憲君主制といえます。しかし同時に「国政に関する権能を有しない(4条1項後段)」との文言が規定されているため,それらが君主としての権能の行使であることが否定されています。この点が通常の立憲君主制との違いとなります。
このように天皇は「内閣の助言と承認」に従い日本国と日本国民を象徴して国事行為を儀礼的に行う機関であり,内閣の「助言と承認」を拒否することはできず,その行為については内閣が「責任を負ふ」のです。国事行為は実質的に内閣の責任で行っているのであり,天皇はその指示に従って形式的儀礼的に行為しているだけの存在というわけです。
2.私的行為
天皇も人間であるわけですから,私的な領域があることについては異論がありません。日本国憲法がそれについて規定していないのは,いわば当然の前提であるからだと考えられています。
3.公的行為
日本国憲法に限定列挙された国事行為ではなく,さりとて私的行為とも言い切れない「公人」としての振舞いを公的行為といいます。主に天皇が国会の開会式で「おことば」を述べる行為が,合憲(公的行為肯定説)か違憲(公的行為否定説)かをめぐって争われてきました。「おことば」朗読以外の公的行為としては,外国元首の接待や親書・親電の交換,国内巡幸,国外公式訪問,国体・植樹祭などへの行事参加,園遊会,正月一般参賀などがあります。
現在,当たり前のように行われている「公的行為」ですが,実は憲法解釈上はかなり危うい理屈の上に立っているといえる状況なのです。
否定説(少数説)の立場からすれば,上記「公的行為」はすべて憲法違反であり,天皇の政治過程への参加ということになります。ただし肯定説(通説)の立場も,天皇の行為を安易に拡大することを容認しているのではなく,内閣の判断(=助言と承認)によるならば認められると構成することで,天皇の行為に事実上の公的な領域が生ずることを認めつつも,その範囲を限定し,かつそれに主権者である国民のコントロールを及ぼすことによって,「国政に関する権能を有しない」という憲法の規定との整合性を図ろうとしているという動機がある点にも注意が必要です。
●学説の状況
学説の整理にあたって,「公的行為説」が通説であるということにかんがみ,できるだけ分かりやすく分類してみます(ちなみに,司法試験的には短答式試験で問われ得る論点ですから,一通りは学習します。)。
まず,そもそも公的行為という概念を否定し,天皇のこれらの行為を憲法違反とする解釈があり,これを「公的行為否定説」(A説)とします。つぎに,通説である公的行為説(B説)ですが,これはその理由付けとして,「象徴行為説」(B1説)と「公人行為説」(B2説)とに分かれます。最後に,「公的行為」というような概念を認めない(使わない)点では否定説と同じですが,これら天皇の行為を認める結論は通説と同じという諸説を,便宜上「中間説」(C説)とします。
●A説 公的行為否定説
憲法解釈としては非常にすっきりしています。要するに天皇が公人としてできることは,すべて憲法に規定されていることを前提として,どうしてそれ以外の行為を勝手に書き足すんですかという疑問に立っています。また,憲法解釈上だけではなく現実問題としても,そんな勝手なことを認めれば,その範囲が少しずつ拡大していくのではないか,やがてはまたしても戦前のように,天皇(制)は体制側による「国民支配の道具」として機能するようになるのではないかという懸念を有している説です。
●B説 公的行為肯定説
しかし,国民的にも式典への皇族出席などが,すでに意識として定着している現状を重視しますと,なかなかA説によることは難しいでしょう。そこで,憲法制定から間もない初期に,「これは内閣の関与を必要とする私的行為である」という「旧私的行為説」(以下「旧説」といいます。)がひねり出され,これが当初の多数説になっていた時期もありました。
しかし,「内閣の関与が必要で,天皇の私的な判断が許されないものを,もはや『私的行為』とはいえないのではないか」という当然の疑問が生じます。また,憲法外の天皇の行為を無制限に認めてしまいかねないという批判もありました。
そこで「公的行為」という概念を天皇の行為として認めてしまうかわりに,天皇の私的判断は反映されない「公務」と規定し,国事行為と同じく内閣の助言と承認を必要とするという枠をはめる新説が出てきます。
すなわち,B説の論者は,天皇の行為には,国事行為以外に公的な性格のものが出てくるのはやむを得ないという,ゆるやかな前提に立ちます。その現実を認めたうえで,そういう天皇の公的行動から,天皇個人が私的な判断で行動する余地をなくし,内閣のコントロール下に置く中庸な説であるといえるでしょう。
また,B説によった場合,「公務」とすることで,そのための予算はすべからく,皇室予算である宮廷費から支出されることとなります。私的行為であるとしますと天皇の私金である内廷費からも支出することが許されてしまい,そうなると監査にかからず,支出について国会がコントロールすることができなくなります。宮廷費なら会計検査の対象になるので,常に国会が使途についてコントロールし,事後審議することが可能になるという点で,旧説に対するB説の優位性があるといえます。
さて,この公的行為という概念を認める通説であるB説の中でも,その理由づけとして主に二説あります。どちらが多数説かは基本書によってはっきりしないところがあります。
●B1説 象徴行為説
まず一つ目の理由づけは,憲法は天皇を「象徴」としているのだから,その「象徴」の行動が多少の公的な性質を有してしまうことはやむを得ない,別の言い方をすれば,天皇の憲法上の地位(象徴)を根拠として公的行為を説明するのが「象徴行為説」です。
ただしこの説には,憲法が(ひいては国民が)天皇に授権した「象徴」という地位に,その内容を越えた過大な意味を付与している,あるいは公的行為として許される範囲がどこまでか明確に限定できないなどの批判があります。
●B2説 公人行為説
そこでもう,すっぱりと「象徴」という規定から切り離して,天皇は「公人」なのだから,その公人が日常で当然に行う社交的,あるいは儀礼的な行為ということでいいではないかというのが「公人行為説」です。
しかしこの説によりますと,象徴行為説以上に「そもそも公的行為ってなんですか,その範囲はどこまでですか」ということがますます曖昧となって,ほとんど何でもありとなりかねないという弱点があります。
●C説 中間説
●C1説 国事行為説
つづいて,天皇には私的行為と国事行為しかないことを前提として合憲性を論じる中間説(C説)があります。まず,「国事行為説」(C1説)を紹介します。たとえば外国元首の接待などは私的な社交儀礼として,国会開会式での「おことば」は7条10号の「儀式を行ふ」に該当する国事行為として認めるというのが「国事行為説」です。
しかし,この説によった場合,理論的に(文理的な解釈として)無理があるという批判がされています。
たとえば,憲法学で最大の論点とされてきたのは,国会開会式での「おことば」の合憲性なわけですが,開会式という「儀式を行ふ」のは天皇ではなく,国会の長である衆議院議長(不在の場合は参議院議長)です。天皇は最高裁判所長官などと共に議長に招かれて出席している来賓にすぎません。これを7条10号に含めるのはいかにも無理があります。結局は「行う」に「参加する」を含めてしまえばよいということにしかならず,学者が憲法を解釈する立場として,国家の権限をこのように無限定に拡大解釈するのはいかがなものか,それは他の条項にも影響をおよぼしてしまうという観点からも批判されています。
ちなみに,「国会を召集する」に含めればよいのではとお考えになられた方もおられるかもしれません。しかし,召集行為は具体的には議員に「国と国民を象徴して」通知状を発する行為までを指しています。すでに召集が終わってしまった段階での「おことば」朗読までそれに含めることは,「儀式を行ふ」に含めるより以上に文理解釈上無理があると思われます。そのため,さすがにわざわざそう主張している憲法学者を見たことはありません。
●C2説 準国事行為説
そこでこの文理上の無理を回避するため,これらの公的な行為は,国事行為に密接に関連した付随的な行為であるから認められるという説が唱えられます。すなわち,公的行為や私的行為なのではなく,「国事行為の一環」であると規定するのであり,かかる説を「準国事行為説」といいます。たとえば,外国元首の接待は国事行為の「外国の大使及び公使を接受すること」に付随する行為であり,開会式での「おことば」は,同じく「国会を召集すること」の付随業務であると構成するのです。
しかし,この説に対しても,どこまでが天皇に許される「国事行為と密接に関連した行為」かその範囲が明確でないという批判があります。
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