最高裁判所における白熱の議論ーー荒ぶる齋藤悠輔最高裁判事
2023/11/14
「生命は尊貴である。一人の生命は、全地球より重い。」
この一文はある小説のものでも、ある哲学者の名言でもありません。実は、日本国憲法の主旨と死刑制度の存在は矛盾せず、合憲であると判断した最高裁判所の判決の一節なのです(最大判昭和23年3月12日 刑集2巻3号191頁)。
現在の日本国憲法において大審院は最高裁判所に生まれ変わりました。そして、最高裁判所設立された当初の10年間は、合議における多数意見と少数意見の白熱した議論がかなり過激に表現されていました。場合によっては行き過ぎてしまい「少数意見制度の濫用」と批判されるものすら生じました。
憲法学者であり後に最高裁の裁判官となられた伊藤正己先生は、著書『裁判官と学者の間』において、「少数意見制は、ときに不当とみられる用い方をされるおそれがあるといわれる。その一つの例は、もっぱら個人的感情を露呈し、自己と異なる意見を論難し、さらに特定の裁判官の名を示して罵倒するようなものである。(中略)我が国の最高裁にあって、初期の不慣れな時期にこの種の少数意見が散見され批判を呼んだ」(伊藤正己著「裁判官と学者の間」74頁)と説明されています。
現在では、反対の意思を強く表現する場合でも「(多数意見には)到底賛同できない」という程度のものが多いですが、当時はまったく違ったのです。
●荒ぶる齋藤悠輔最高裁判事!
このような少数意見のなかでもとくに過激な最高裁判事の代表の一人として、齋藤悠輔最高裁判事(以下「齋藤裁判官」といいます。)をあげることができます。
まずは、荒ぶる齋藤裁判官の代表的な意見をご覧ください。
食糧管理法の大法廷判決に従った多数意見に反対し、「この大法廷の判決は、一見頗る常識に富んだ尤もな議論のようにも見える。しかし、それは、飽くまでも目先のことであって、その実極めて浅薄な謬論である(中略)わたしは、前記大法廷判決には声を大にして反対する。最高裁判所の裁判というのは、もつと大所、高所からすべく、より毅然たるべきであると信ずるからである。」(最判昭和26年12月27日刑集5巻13号2657頁)
詐欺の起訴状に前科等の余事記載があったことについて、これは違法で治癒不能とした多数意見に対し、「(起訴状一本主義を定める刑訴法256条)六項の規定だけを根拠として直ちに多数説の説くがごとき結論は絶対に生じない。(中略)(多数説は)山鳥の尾の長々と、いかにも尤もらしく説明している(中略)(しかしながら、)多数説は、重要である後者と重要でない前者とを混同する詭弁(に過ぎない)(中略)多数説の力説するがごとくこれを以って、いわば綸言汗のごとき治癒不能の違法であると見るのは浅見、迂遠も甚だしい(中略)多数説は極めて窮屈な形式論であつて、抑も裁判は証拠によるべきものである大原則を忘れ、裁判官自らを殆ど人形乃至奴隷視するものといわざるを得ない」(最判昭和27年3月5日刑集6巻3号351頁)
差戻し後の控訴審判決がその破棄された前判決との関係においても不利益変更禁止の原則に従うべきものとした多数意見を批判し、「(多数意見をとってしまった場合のように、)原裁判所が折角その(差戻しを命じた上告審判決の)命令に従って詳細に事実審理をした結果犯罪事実並びに犯情に前の判決と異なった結果を生じたと認めてこれに適当する刑を科しても、次の上告裁判所では同一事件に対し出し抜けに刑だけは前の判決よりも不利益に変更してはならない、変更したら旧刑訴452条(注:不利益変更禁止の原則)の精神に反し違法で御座るというがごときは全く上告裁判所の横暴、無理というものであって、下級裁判所としては到底納得し得ないところといわなければならない。されば、多数説は、法理と常識と下級裁判所を無視したいわば安価な慈善的上告勧奨論であって、反対せざるを得ない」(最判昭和27年12月24日刑集6巻11号1363頁)
執行猶予を言い渡された犯罪の余罪について更に執行猶予を言い渡すことができるかについて「できる」と判断した多数意見を批判し、「(多数意見のような)微視的な恣意的解釈論には賛同できない」(最判昭和28年6月10日刑集7巻6号1404頁)
いかがでしょうか。過激ですね。その最たるものは次の意見です。
銃砲火薬取締法が既に失効したとした多数意見について、「そのような戦後派的考え方は、わが国の従来の立法形式を理解しない極めて浅薄な考え方といわなければならない。(中略)(地方自治法が与えた委任の範囲と、銃砲火薬取締法の委任の範囲を比較して)この新しい自治法の規定に目を蔽い、ひたすら彼の旧い法律八十四号だけを非難するがごときは、驚くべき偏見であり、笑うべき自己矛盾というべきである。(中略)(多数意見のいうような)一部の罰則規定だけは、或る期限で失効し、一部の禁止命令だけは、その後も依然法律と同一の効力を以って存続し、かくて制裁の伴わない禁止命令だけを徒らに空しく叫び続けるというようなことは、常識からいつても、また、右法律七十二号を熟読玩味しても、到底了解することはできない。(中略)多数説は無理であり、曲解であると言わざるを得ない。」(最判昭和27年12月24日刑集6巻11号1346頁)
さすがにここまで言われて多数意見の裁判官(残りの裁判官すべて)も黙ってはいません。多数意見の裁判官のうち、河村又介裁判官と入江俊郎裁判官は補足意見を出しました。
「齋藤裁判官は誤解している」(最判昭和27年12月24日刑集6巻11号1346頁)
…何も言えません。
●そしてクライマックスへ――
齋藤裁判官の意見がその過激さの頂点に達したのは、尊属傷害致死罪を合憲とした多数意見の立場から、尊属傷害致死罪を違憲とする穂積重遠最高裁判事、真野毅最高裁判事(以下「真野裁判官」といいます。)に対して齋藤裁判官が述べた意見でしょう。
「 少数説に対しては特に世道人心を誤るものとして絶対に反対(する)(中略)真野説は、勢頭米国連邦最高裁判所に掲げられている標語や国際連合人権宣言を由ありげに引用している。だが、悲しいかな、米国各連邦では、必ずしも法律が同一でなく、従って、かかる異なる法の下における実際上の正義が平等であり得ないことはいうまでもない。しかのみならず、米国には人種による差別的法律の多数存在することは、世界周知の事実である。さすればこそ米国連邦最高裁判所においては特に標語として論者引用の四字(Equal Justice Under Law)をかの真白の大理石深く刻んでおく必要があるのであって、我憲法上段鑑とするは格別毫も模範とするには足りないものである。
(中略)
わが憲法十四条を解釈するに当り冒頭これらを引用するがごときは、先ず以って鬼面人を欺くものでなければ羊頭を山懸げて狗肉を売るものといわなければならない。以下の論旨については前に一、二触れたものであるが要するに民主主義の美名の下にその実得手勝手な我儘を基底として国辱的な曲学阿世の論を展開するもので読むに耐えない。」(最判昭和25年10月11日刑集4巻10号2037頁)
さすがにこのような攻撃は、その激しすぎる言葉づかいゆえ、裁判官訴追委員会の調査が行われたそうですが、結局不訴追となったそうです。後日談ですが、東京第二弁護士会広報委員長(当時)が真野裁判官に対し、「齋藤先生と灰皿を投げ合って論争したというのは本当ですか?」と聞きますと、真野裁判官は「そんなことはしない。六法全書を投げ合ったんだよ」と答えたというエピソードが残っているそうです。
● よりよい裁判制度への情熱ゆえに
上記のような 行き過ぎはあったかもしれませんが、それもひとえによりよい裁判を目指すための情熱ゆえであったのではないかと思います。
真野裁判官はつぎのような意見を残しておられます。
「戦後のあわただしい法制の変革を大観するとき、われわれの最も注意しなければならないことの一つは、プラグマティズムの哲学思想が、法令のそこここに採り入れられ、時の鐘がわれわれの迷夢を破ろうとしている現実を感得することができる。手近に二、三の例を拾ってみよう。(一)まず、最高裁判所の「裁判書には、各裁判官の意見を表示しなければならない。」(裁判所法第一一条)と規定された。従前は長い間一元論的な哲学思想の流れをうけて、裁判というものは是が非でも無理やりに一本に纏め統一ある姿に仕上げなくてはならぬものとされていた。しかるに、ここには、各裁判官の意見が、現実の問題として互いに相岐れた場合には、無理に一つに纏めず、現実が多元的である以上その多元性をそのまま率直に認めて行こうとされたのである。これはまさにプラグマティズムの思想である。(中略)米国においては、卓越した裁判官の示した幾多の優れた少数意見が、やがて数年、十数年、数十年の後には、多数意見となり、ロー・オブ・ザ・ランドとなっていったことは、すでに多くの経験の実証するところである。私は、この制度が、わが司法の進歩と発展に貢献するところ多いことを信じて疑わない。」(最判昭和24年5月18日刑集3巻6号794頁)
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弁護士 濵門俊也
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